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「『太平記』と菊」

 『太平記』は天皇家が二派に分かれて争った唯一の時代、南北朝期をヴィヴィッドに物語る戦記物として有名である。読本だけではなく「太平記読み」という人々にとっても流布されたというが、史実なのか虚構なのか区別のつかぬところがあるらしい。内容も中国書からの逸話や仏教説話など豊富にちりばめられ、かわったところでは中世に創られた神話さえも挿入されているほどで、『太平記』のなかに「菊」が登場しない訳はなかった。
 巻十三の「龍馬進奉書」は後醍醐天皇が進奉された馬を叡覧し、吉凶はどうなのかと臣下に問う話なのだが、その中で「菊が齢(よわい)を延ぶ」という慈童の物語を展開している。
 参考にしたと思われる文献と対比しながら記述を追ってみると面白い。岩波の古典文学大系『太平記』から抜粋してみよう。
 「昔穆王(ぼくおう)の時・・・・天馬来れり。穆王これに乗り手・・・・あるとき西天十万里の山川を一時に越えて、中天竺の舎衛国に至り給ふ。時に釈尊霊鷲山(りょうじゅうせん)(注1)にして法華を説き給う。・・・・その時、仏漢語をもって四要品(しようぼん)の中の八句の偈(げ)を授け給う」

「・・・滋童と云いける童子を穆王籠愛し給うに依りて、恒に帝の傍に侍けり。或時・・・・・誤て帝の御枕の上をぞ越ける。群臣議して日・・・・ 遠流に処せらるべし・・・・・かの_県(てつけん)(注2)と云深山へぞ流されける。・・・・穆王なお慈童を哀れみ・・・・彼八句の内を分たれて、普門品にある二句の偈をひそかに此文に授させ給て、毎朝十方を一礼して、此文を唱ふべしと迎せられける。・・・慈童もし忘れもやせんずらんと思ければ側なる菊の下葉に此文を書き付けり。其より此菊の葉における下露、僅に落て流るる谷の水に滴るけるが、其水皆天の霊薬と成る。慈童渇に臨で是を飲に、水の味天の甘露の如にして、あたかも百味の珍に勝れり。・・・換骨羽化の仙人となる。是のみならず此谷の流の末を扱で飲ける民三百余家、皆病即消滅して不老不死の上寿を保てり。」

「・・・・其後時代推移して、八百余年まで慈童猶少年の貌有て、更に衰老の姿なし。魏の文帝(注3)の時、彭祖(ほうそ)(注4)と名を変えて、此術を文帝に授奉る。文帝是を受けて菊花の盃を伝えて、万年の寿をなさる。今の重陽の宴是也。」

このように『太平記』の記述は荒唐無稽にも思えるがその裏付けはあるのだ。『太平記』の作者は元の資料を面白く脚色しながら中国書にはない慈童を創り出してしまった。そして『太平記』と慈童はのちに菊慈童や枕慈童へと変容していく。

(注1)『随天台智者大師別伝』
霊鷲山で学ぶということは人々の憧れであったのだろうか。若き天台大師が、天台の祖、慧思禅師を遠くよりはるばる訪ねて来た時、禅師は心から喜び「昔日、霊山に同じく法華を聴く」とこれ以上ない親しみの言葉で迎えたと言う。
   
(注2) 『風俗通義』
南陽_県甘谷にある谷川の水は菊の茲液を含み、味は美味であり甘谷に人々の寿は百二、三十才で短命でも七,八十才・・・・
『抱朴子』「仏薬篇」
南陽の_県の山中に甘谷水あり、その谷水の甘き所以は谷の上の左右みな甘菊を生じ・・・・
『荊州記』
南陽_県北八里有菊水、其源悉香、菊被岩水極甘香、谷中皆飲此水、上寿百二十,七八十者猶以為夭、・・・・・

(注3)
魏の文帝曹丕(220〜265)は長老の部下、鐘_(しょうよう)の長寿を祈って次のような、書簡と芳菊一束を与えた。「齢往き月来たり。勿ち復九月九日なり。九は陽数たり。而も日と月と並び応す。・・・・・故に以て享宴高会す」

(注4) 『列仙伝』
彭祖は殷の大夫だったが夏の時代を経てきたので殷の末年には八百余歳だった。
『神仙伝』
彭祖は殷代の末には七百六十七才。老衰はしていなかった。大夫として王に仕えたが出仕しなかったので、王は采女(さいじょ)を彭祖のもとに送り不老長寿の奥義を秘得した。


(参考文献) 
岩波書店 『日本古典文学大系35太平記』
新田一郎 『太平記の時代』
村中裕生 『天台小止観をよむ』
王  敏 『花が語る中国の心』
多田克己 『妖怪4号』「画図百鬼夜行の妖怪」
沢田瑞穂訳 『列仙伝・神仙伝』

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